高校生時代は写真部に所属し卒業後、大阪の日本写真映像専門学校に進学。当時設置されていた研究科という3年目の学科に進み卒業している。
(※画像は2004年開催の初個展の展覧会風景。作品のシリーズは2000年卒業制作で作られたもの)
初めて浅田作品「浅田家」を見た人の中には家族のコスプレ写真だと思う人がいたと思う。しかし、ただのコスプレ写真ではない。
見る事のできない「浅田家」の制作現場にこそ、浅田作品の本質がある。
(それを知る事ができるのは、浅田本人が語るトークショーやインタビュー記事がわかりやすいのだが、、。)
浅田作品やトークショー、日々の談笑などを通して「浅田家」という家族の姿を長年見続けてきた。その中で勿論、自分を育ててきた家族に重ね合わしたり、比較したりしてきた。
そこで感じた事がある。
元々家族というのは血縁は持っているが、各個人の生きるコンセプトや言語というのは全く違っているのではないかと言う事だ。
その全く違っている(若しくは成長の中で変化していった)個人の持つコンセプトや言語の中で血縁という見えない縛りの中で生きているのではないだろうか。
他人同士の集まりである会社や学校、友人関係の場合、元々の縛りがない中で「共通言語」を持ったもの同士が集まる。
だからこそ比較的気楽なコミュニティが形成される。
さて、話を元に戻すと「浅田家」の制作をしている事で浅田政志家族は会話が増え、家族の仲が良くなったと話す。
これは、「家族」のハレの日を作り出しているからではないだろうか。
元々、家族というコミュニティには「盆暮れ正月」「結婚式」子供の「初参り」「葬式」「法事」など日常生活から少し離れ、家族で同じコンセプトを共有するイベントがある。
これが核家族化や個人のライフスタイルにあわないという理由から疎ましいイベントになり、家族としてのコミュニケーションがとれない状況が多くなってきたのではないだろうか。
浅田は言う。
「家族写真じゃなくてもいいんです。」
「お父さんが書道をやっていたらみんなで書道をしてみたらどうか?」
「お母さんがピアノをやっていたらみんなで歌ってみたらどうか?」って。
続けられる共通のコンセプトや言葉(簡単に言えば共通の趣味)をつくる事の大切さや楽しさを「浅田家」を通して浅田政志が伝えているように思います。
ということで、「浅田家」を深読みしてみました。
office AURACROSS 前田龍央

追記。(office AURACROSS 前田龍央)
浅田政志の第34回木村伊兵衛賞受賞に異論を唱える声がある。
理由は穴馬的で作品が「トリッキー」であり、折り目正しい「正当性」を持った作家が良いという事らしい。(出典:artscapeレビュー/飯沢耕太郎)
正当性って何だろう。
その正当性を定義した人たちが本当に正当性を持っているの?
正当性の定義が時代の変化で古くなっているかもなって、反証することはないのかな。
古いまんまで良いものと、前時代の考え方が間違っていたもの。
その違いを考える時期にきているのかもしれないなと思う評論でした。
てか、木村伊兵衛賞の存在意義自体改めて反証する必要性もあるかもしれません。